日本

思い出の熊本ラーメン「龍虎」(熊本市中央区本山)

熊本ラーメン「龍虎」
なんでんうまか店 熊本市の迎町で生まれ育った私の実家から徒歩1分の近所に、創業昭和47年(1972年)の老舗ラーメン店「龍虎」がある。私の心の中に残る特別な場所だ。 キャッチコピーは “なんでんうまか店”。“なんでも旨い店” という意味。ラーメン店として知られているが、キャッチコピーの通り、ラーメンや餃子のほかにもちゃんぽん、焼きそば、太平燕(タイピーエン)、丼もの、おつまみ系などもあり、メニューは幅広い。 店は、町内のメインストリートである産業道路(県道22号線)に面している。下の写真は、私が1993年と2013年に本山歩道橋から迎町側を定点撮影した産業道路。「龍虎」は、通りの左側にある。通りの雰囲気は、現在も当時と基本的にはあまり変わらない。 本山歩道橋から迎町側を定点撮影した産業道路の風景。 龍虎のおっちゃん 長年ご夫婦で店を切り盛りされていて、地域に密着し、多くの人々に愛され続けている。とりわけ、明るく元気いっぱいの店主・牛島さんは、当時から向山校区の有名人だった。 優しくて面倒見のいい牛島さんは、町内の子供たちにとっても親しみやすかった。私と友人たちは、小学生の頃から親しみを込めて “龍虎のおっちゃん” と呼んでいたので、この記事では以後この呼び名で統一することにする。* *口語では「龍虎のおっちゃん」の「の」の発音は「ん」に近く、“龍虎んおっちゃん” となる。さらに「ん」は限りなく省略され、実際には “龍虎おっちゃん” と呼んでいた。 忘れられない思い出 私は小学生の頃、同級生二人と通学路にある「龍虎」のドアから店内を覗き、龍虎のおっちゃんがこちらに気がつくと「わー」と叫びながら走り去って遊んだりしていた。 ある土曜日、お昼に小学校が終わっていつものように同級生二人と「龍虎」の入り口から店内を覗いて遊んでいた。ところがこの日はいつもと様子が違い、龍虎のおっちゃんは私たちを店内に招き入れ、カウンターに座らせた。ついに怒られるのかと思ってビクビクしていたら、なんと私たち一人ずつにラーメンをご馳走してくれた。めちゃめちゃ美味しかった。この出来事は、「龍虎」の一番の思い出として今でも鮮明に心に残っている。 私が毎日登下校していた通学路に「龍虎」がある。 入り口からみた店内の様子。私が小学生だった1980年代は厨房は正面にあり、カウンター席が横に並んでいた。 俺の地元のラーメン それからも、2001年にハワイに移住するまで、私は「龍虎」を何度も訪れた。ことあるごとに出前も注文した。特に、ラーメンと焼きめしは絶品だった。大学時代には、当時のガールフレンドを店に連れて行って龍虎のおっちゃんに彼女を紹介し、“俺の地元のラーメン” を彼女に自慢したりした。 豚骨のみをじっくりと煮込んだ絶品のラーメン。 香ばしい焼きめし。 25年ぶりの再訪 先日、コロナ禍以来初めて、約4年ぶりに熊本に帰省した際に、25年ぶりに「龍虎」を訪れた。今回は、妻と二人の子供たちと一緒だった。店の雰囲気、匂い、ラーメンと焼めしの味、なにもかもがたまらないほど懐かしい。ハワイ生まれの3歳の長男も「おいしい、おいしい」と言って、本場のクラシックな熊本ラーメンを堪能していた。 そしてなんといっても、再会した元気な龍虎のおっちゃん。今年で81歳だという彼は、その年齢を感じさせない若々しさと活気を持っておられた。今でも当時と変わらず自ら原付バイクで出前も担当されていた。奥様もお元気そうだった。帰り際には、私の母へのお土産まで頂き、その心温まる対応に感謝の気持ちでいっぱいとなった。 ちなみに、小学生の私と同級生二人にラーメンをご馳走してくれた40年近く前の土曜日の昼の出来事は、おっちゃんは全く覚えていない様子だった。 相変わらず若々しくて元気いっぱいの龍虎のおっちゃん。 出前箱。コック帽をかぶった龍虎のおっちゃんのイラストは私の子供の頃から変わっていない。 店の外観。 なんでんうまか店 熊本ラーメン龍虎 本山本店 熊本市中央区本山1丁目4-10096-354-6855ウェブサイト:ryuko-ramen.com ※写真はすべて筆者による撮影で、牛島さんご夫妻の承諾を得たうえで掲載しています。

石川酒造(多満自慢)酒蔵見学

石川酒造(多満自慢)売店「酒世羅」
タイムリーな縁を感じて 東京に数日滞在することになり、半日予定が空いていたので、見学可能な都内の酒蔵を検索したところ、福生市で「多満自慢」を造る石川酒造が見つかった。 駅から近くて行きやすそうだ。そしてなにより「多満自慢」といえば、私がデザインディレクターとしてブランディングを担当させていただいているロサンゼルスの日本酒販売会社「Tippsy」が展開している月額制サブスクリプションボックスの2019年4月版に、奥の松、水芭蕉とともに選ばれている銘柄ではないか。これは何かの縁だと思い、すぐに石川酒造に見学の予約を入れた。 新宿駅から拝島駅へ 新宿駅で、午前8時19分発の「ホリデー快速おくたま・あきがわ」に乗車した。土、日、祝日に運行される快速列車だ。車内は空いていたが、奥多摩への登山客と思われる人がちらほら見られた。9時4分、拝島駅で下車した。 多摩川を散歩 蔵の近くを流れる多摩川 予約した酒蔵見学は10時30分からだったので、時間つぶしに蔵の近くを流れる多摩川に歩いて行ってみた。河川敷は桜並木になっていて、桜が満開だったこの日は桜祭りが行われていた。うららかな快晴の朝に桜を楽しんだあと、酒蔵に向かった。 多摩川河川敷の桜並木 酒蔵へ 静かな住宅地に突如長い塀と白壁の建物が現れ、すぐにここが石川酒造だとわかった。「多満自慢」と書かれた大きな扁額が掛かる正門をくぐると、すぐ正面に本蔵があり、その左は売店「酒世羅」がある。敷地内は静かで人はあまりいない。 敷地の外から見た酒蔵 予約がいらない「お気軽散策コース」という、ガイドがつかない無料のコースもあったが、しっかり見学したい我々は、「多満自慢(日本酒)見学コース」の予約をしておいた。見学の予約したうまを売店で伝え、チェックインと支払い(1人700円)をすませた。 他に「クラフトビール飲み比べコース」(1人1000円)や、「酒蔵の幸御前付き見学コース」(1人1800円)などのコースもある。英語でのガイドも可能なので、興味がある方は石川酒造のウェブサイトをチェックしていただきたい。 ちなみに、我々の見学の第一希望は日曜日だったが、電話で問い合わせてみるとすでに定員15名分の予約が入っているとのことで、前日の土曜日にした。酒蔵見学の人気のほどがうかがえる。 この日は、ハワイからやってきた我々2名の他に、日本酒にとても熱心な女性2名のグループと、他の酒蔵も見学したことがあるという男性3名のグループの合計7名が見学に参加した。 石川酒造について 石川酒造入口 10時30分、言われた通り売店前に集まると、ガイド担当の石川さんが、まず石川酒造についてと今日の見学コースの概要を説明してくださった。ガイドの石川さんは、石川酒造の血筋の方かと勝手に思っていたが、後で伺うとそうではなかった。この辺りは石川姓がとても多いそうである。 石川さんによると、石川酒造は幕末の1863年に創業された。創業当時の蔵は、多摩川の対岸、現在のあきる野市にあり、「八重桜(やえさくら)」という銘柄の清酒を造っていたという。その後、1880年に現在の場所に移り、1933年には現在の銘柄である「多満自慢」が誕生した。 また1887年から約2年間はビールの醸造も行われ、「日本麦酒」というラガービールが販売されていた。その後、長い間ビールの醸造は行われていなかったが、1998年、111年ぶりに復活し、現在では「多摩の恵」と「Tokyo Blues」の銘柄で個性豊かなクラフトビールを醸造している。 現在「多満自慢」は、若い杜氏と4.5人の蔵人というごく少人数で丁寧に造られている。4.5人というのはどういう意味だろう。一人は半人前の見習いということだろうか。さらっと言われたので尋ねるのを忘れてしまった。 石川酒造の酒は、気温が低い秋から初春にのみ仕込みを行う昔ながらの「寒造り」によって造られているが、蔵人たちは季節労働者ではなく、社員として通年勤務している。酒造りの季節以外は社内のさまざまな業務に携わっているそうだ。私たちが訪ねたこの日は、敷地に鯉のぼりが設置されている最中で、この作業を蔵人の方がしておられた。 本蔵から見学開始 1880年建造の本蔵 見学は、幅約23m、高さ約13m、奥行き約31mの本蔵の中から始まった。石川酒造が現在の場所で酒造りを始めた1880年に建てられた蔵で、石川酒造の清酒はすべてこの本蔵で造られている。 ひんやりとした本蔵に入ると、タンクがずらりと並んでいる。ここに人数分の猪口に酒が用意されていて、いきなり最初のテイスティング。酒は多満自慢 純米無濾過。使用米はコシヒカリ、精米歩合は70%。穏やかな味わいの純米酒だった。燗にするとさらにおいしくなるそうだ。純米無濾過を飲みながら、石川さんが黒板を使って酒造りの基本的な工程、酒米と食用米の違い、酒造りによく使われる用語などを説明してくれた。 本蔵の内部 国登録有形文化財の建物群 敷地内の様子 本蔵をあとにして、敷地内の施設や植物の解説を受けながら、ゆっくりと歩いた。石川酒造には本蔵の他に、1775年以前に建てられたと伝わる長屋門、1863年に建てられた文庫蔵、1898年に建てられた雑蔵など、6つの建物が国の有形文化財に登録されていて、どの建物もとても見応えがある。 なお、雑蔵の2階は資料館になっており、石川酒造の史料が多数展示されている。入場は無料。 資料館 資料館に展示してある「多満自慢」や「八重桜」の古いラベル 仕込み水 仕込み水の性質が酒の風味を決定する 「多満自慢」は、敷地の地下150mより汲み上げる天然地下水を使用して造られる。水は中硬水で、この地下水の性質上、「多満自慢」は優しい口当たりの酒が多い。辛口の酒を欲しがる地元の「多満自慢」ファンもいるらしいが、この水から辛口の酒を作るのはなかなか難しいのだそうだ。 テイスティングルーム 歴史的建物、水、御神木である樹齢700年のケヤキなどを見学したあと、ビール工房でビール造りについて短い説明を受け、雑蔵の一階にあるテイスティングルームに移動した。 用意されていた席に座り、大吟醸、純米大吟醸、純米生原酒あらばしり、純米生原酒かめぐち、そして最後に梅酒の順にテイスティングした。この頃には参加者たちも打ち解けあって、それぞれ意見や感想を言いながら楽しいテイスティングになった。 お土産として「多満自慢」の銘が入った猪口をいただき、これで約45分の見学は終了。何度でもテイスティングしてよかったため結構な量を飲んでしまった。朝からほろ酔い状態になった私は、いい気分でテイスティングルームをあとにした。 この日テイスティングした6種類の酒 併設レストラン「福生のビール小屋」 石川酒造の敷地内には、「福生のビール小屋」というイタリア料理店もある。もちろん多満自慢、多摩の恵、Tokyo Bluesが揃っていて、料理に使う水は、仕込み水と同じ地下150mから汲み上げた天然地下水が使われているそうだ。 雰囲気の良いテラス席もあり、店の入り口にあったメニューはどれも美味しそうだったのでここで昼食にしようと思ったが、あいにく満席で入ることができなかった。見学中、昼前から敷地内を歩く人が多くなったなと思っていたが、皆レストランを目指していたのだ。ここでの昼食は諦め、石川酒造をあとにした。 写真はすべて筆者による撮影

ボブ・ディランのコンサート

初めてのボブ・ディラン 私は、18歳のときから今にいたるまでずっとボブ・ディランの大ファンである。このことは「エルヴィス、ビートルズ、そしてボブ・ディラン」で詳しく書いた。ボブ・ディランのコンサートには、これまで3度行ったことがある。1度目は、私がまだ日本にいた2001年、福岡でのコンサートだった。 私は当時23歳、ボブは60歳の誕生日の約2ヶ月前だった。会場はサンパレス福岡。私と同じ時期からボブ・ディランの大ファンになった母と、大学の音楽サークルの後輩と3人で熊本から観に行った。会場は椅子のある大きなコンサートホールで、我々の席はホールの真ん中あたりだった。英語のMCで紹介され、ボブ・ディランが登場。観客からは大きな拍手と歓声。私も母も、ファンになって5年目で初めての生ボブだ。 1曲目は軽快なブルーグラスの曲。聴いたことがなかったが、後で調べると「Hallelujah, I’m Ready to Go」という曲で、ボブのオリジナル曲ではない。ボブはこの曲を、1999年から2002年にかけてのコンサートで合計37回演奏したそうだ。いきなり知らない曲から始まったので、やや拍子抜けしたのは否めない。しかし今思えば、この時期しか聴けない珍しい曲を聴くことができてよかったということだ。 至福のミスター・タンバリン・マン 1曲目が終わり、すぐに2曲目のイントロに入るが、また何の曲か見当もつかない。しかしこの私の不安は、ボブが歌いだした瞬間、「ワアーッ!」という観客の歓声と拍手とともに消えた。私が、ボブ・ディランに限らず今まで出会ったすべての曲の中で最も好きな曲、「Mr. Tambourine Man(ミスター・タンバリン・マン)」だった。 私も母も絶叫に近い声をあげて喜んだ。 軽やかでメロディアスなオリジナルバージョンとは異なり、重厚で、まるでお経でも唱えるように歌っていく。ボブによる長いギターソロもあり、素晴らしいの一言。あとで新聞で知ったことだが、今回の日本公演で「ミスター・タンバリン・マン」を初めて演奏したのがこの日だったらしい。ラッキーだった。 それにしても、なんという大胆なアレンジだろう。以後の曲もそうだが、イントロだけではなんの曲かわからないものが多いのだ。そして、この時期のボブのライブパフォーマンスの特徴だが、ギターソロを積極的に弾いてくれるのも嬉しい。 往年の名曲たちを堪能 その後ボブは、「Desolation Row(廃墟の街)」、「Just Like a Woman(女の如く)」、「Masters of War(戦争の親玉)」など往年の名曲を次々と演奏していく。ハーモニカのソロでは大きな歓声が起こった。至福の時間だった。9曲目の「Don’t Think Twice, It’s All Right(くよくよするなよ)」は、特に素晴らしかった。軽快なリズムに乗せて、優しくささやくように歌っていた。この曲はイントロですぐにわかった。 アンコール前最後の曲の「Rainy Day Women #12 & 35(雨の日の女)」では、観客が立ち上がり、ステージ前に押し寄せた。我々も負けじと前に行った。母はこのときに何度もボブと目が合ったらしい。 最高潮でフィナーレへ アンコールで再登場後2曲目は、私がボブにはまったきっかけになった曲、「Like a Rolling Stone」だった。震えるほど感動した。そして最後の曲は、フォーク時代の代表曲「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」だった。私はこの2曲のライブバージョンといえば、ライブアルバム「Before the Flood」に収録されているバージョンが最も好きだが、生で聴いたこの日の「Like a Rolling Stone」と「Blowin’ in the Wind」は、また格別だった。 2度目のボブのコンサートは、2010年11月のニューヨーク、そして3度目は2014年4月のホノルルだ。いずれも素晴らしいパフォーマンスだった。

エルヴィス、ビートルズ、そしてボブ・ディラン

エルヴィスが子守唄 生まれた時から熊本の実家では、年中、父親が偏愛したエルヴィス・プレスリーの曲が流れていた。大げさではなく、エルヴィスの歌を子守唄にして育ったようなものだ。当然、エルヴィスの曲はほとんど歌えるほど知っている。 中学生になると、エルヴィスの音楽性やカリスマ性もよく理解できるようになった。私は特に初期のロカビリー色の強い曲が好きだった。サン・レコード時代の「Blue Moon of Kentucky」、「I Don’t Care if the Sun Don’t Shine」、「Baby Let’s Play House」、「Mystery Train」などをひたすら聴いていた。今もこれらの曲を聴くと、熊本の少年時代の情景や思い出や匂いがノスタルジックに蘇ってくる。 ビートルズに没頭した高校時代 そこから自然の流れで、カール・パーキンス、チャック・ベリー、リトル・リチャードなど、エルヴィスが歌った名曲たちを作った同時代のアーティストや、彼らの曲をカバーしたザ・ビートルズなども聴くようになった。 特にビートルズは、私が高校1年生のときに通称「赤盤・青盤」と呼ばれるコンピレーションアルバムがCDで発売されたということもあり、よく聴いた。高校1年生の冬から毎月1枚ずつ、デビューアルバム「Please Please Me」から順にすべての英国版CDアルバムを、熊本市街の上通りにあるウッドペッカーというレコード屋で買い揃えて愛聴した。“英国版”というのが小さなこだわりだった。 翌年、高校2年生のときに「Live at the BBC」が発売され、エルヴィスのバージョンで慣れ親しんでいた「That’s All Right (Mama)」、「I Forgot to Remember to Forget」、「I Got a Woman」、「Johnny B. Goode」などの曲のビートルズによるライブカバーを聞いて、さらにビートルズに熱中していった。 特に、ジョン・レノンが好きだった。 さらに翌年、高校3年生の大晦日、テレビで「ザ・ビートルズ・アンソロジー」のドキュメンタリーが放映された。紅白歌合戦の裏番組だった。番組の案内役だった小宮悦子さんもジョンのファンで、「Strawberry Fields Forever」などの曲が好きだと言っていたのが嬉しかったことを覚えている。 そしてボブ・ディランへ ドキュメンタリーのなかで、ビートルズに大きな影響を与えた人物としてボブ・ディランが登場した。とくにジョンが熱狂的に惚れ込んだと知って、私もボブ・ディランのことが気になった。 ボブ・ディランはたくさんのアルバムを出していて、いつの時代のどのアルバムを買えばいいか迷ったが、まずは有名な「Like a Rolling Stone」が収録されている「Highway 61 Revisited」を買った。 一曲目の「Like a Rolling Stone」のイントロから一番を聴いてすぐ、ノックアウトされた。めちゃめちゃかっこいいと思った。今まで聴いてきたどんな曲とも違っていた。30年前の曲とは信じられないくらいなにもかも斬新に聴こえた。もちろん、当時18歳の私には歌の意味はほとんどわからなかったが、なんとなくすごいということは感じとれた。ちなみに、ボブ・ディランには、歌詞の内容はわかってもその歌の真意は難解すぎてわからない曲がたくさんある。 アルバム最後の曲「Desolation Row」も、とんでもない曲だと思った。11分もあるアコースティックギターでの弾き語り曲で、いろんな登場人物が出てくるが、なかなか意味がわからない。でもなんかかっこいいのだ。歌詞をみながら何度も何度も聴いた。長大な歌詞だが、今では一字一句すべて覚えてしまった。2001年3月に福岡で初めてボブ・ディランのコンサートを観たが、そのときの3曲目で「Desolation Row」を生で聴けたのは嬉しかった。なお、この日のことは「ボブ・ディランのコンサート」で詳しく書いた。 「Highway 61 Revisited」を聴いた母も、私と同じようにボブ・ディランにはまってしまった。以降は、母と一緒にせっせと全アルバムを買い揃えた。 ボブ・ディランを聴いて、確かに彼がビートルズに影響を与えたことがわかった。まず歌詞の内容が「Rubber Soul」あたりから哲学的になっていくし、サウンドがボブ・ディランっぽい曲がちらほらある。ジョンの「You’ve Got to Hide Your Love Away」はいかにもボブ・ディラン風だし、ポールの「Rocky...

天草旅行(2015年8月)

﨑津教会
特別な場所 現在、『ダイヤモンドヘッド三十六景』というイラストをシリーズで描いている。葛飾北斎の有名な『富嶽三十六景』へのオマージュだが、これとは別に、私がハワイと同じくらい好きな天草諸島(熊本県)をテーマにしたイラストを描きたいという思いが、年々こみ上げてきている。 天草は、私にとって少年時代からの思い出がたくさん詰まった特別な場所なのだが、これまでは、それぞれの島のそれぞれの地域がもつ多彩な風景や風土が、漠然と好きなだけだった。しかし、天草をテーマにしたイラストを描くためには、これからもっとたくさん四季折々の天草を訪れて、自然、歴史、文化に触れなければならない。 『牛深ハイヤ』| 絵:崎津 鮠太郎 2015年8月の一人旅は、そういう思いを込めた最初の天草旅行だった。3日間しかなく、訪ねるのを割愛した場所がたくさんあった。史跡や景勝地にはほとんど行かなかったし、天草の中でも私が特に好きなエリアのひとつである上島南岸(姫戸、龍ケ岳、倉岳など)もまるごとカットした。天草を題材にした作品数点を残した川瀬巴水の足跡を辿ったりもしたかったが、できなかった。 ハワイで暮らしている私が今後どのくらい頻繁に天草を旅行できるかわからないが、今回は、まずは下見というか、天草の魅力と私の島々への思いをあらためて確認するための旅だった。 7年ぶりの天草路 午前8時、レンタカーで熊本駅前を出発し、天草へ。2009年4月に牛深ハイヤ祭りを観に行って以来、7年ぶりの天草だ。国道3号線から宇土で国道57号線を右折。宇土半島の北岸を三角方面に進む。子供の頃から数え切れないほど通った、懐かしのコース。 宇土半島の先端近くに、三角西港がある。世界遺産『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』の構成資産のひとつである。この旅の約1ヶ月前、7月5日に登録されたばかりであった。三角西港を過ぎ、宇土半島と天草諸島の最初の島である大矢野島を結ぶ天門橋(天草五橋一号橋)を渡る。橋のすぐ北側には、新天門橋(仮称)の建設が進められていた。 大矢野島の天草四郎観光協会に立ち寄ってパンフレットを数冊入手後、天草パールラインを進み天草上島へ。松島からは有料道路があるが、海岸や港町の景色を楽しみたいので下道(国道324号線)をのんびりとドライブした。道の駅有明リップルランドでトイレ休憩して、本渡へ。島子あたりから天草瀬戸大橋までひどい渋滞だった。ようやく渋滞を抜け、本渡の水の平焼を訪ねた。 水の平焼 今回購入した青海鼠の猪口、丸皿、赤海鼠の飯椀 天草には天草陶磁器の窯元が諸島各地に点在する。水の平焼(みずのたいらやき)はそのひとつで、創業は1765年と古い。海鼠釉(なまこゆう)と呼ばれる独特の釉薬で知られていて、青海鼠(あおなまこ)と赤海鼠(あかなまこ)がある。青海鼠の猪口と丸皿、赤海鼠の飯椀を購入した。ハワイで使うのが楽しみだ。 新和町のハマボウ ハマボウの花(新和町) 本渡で昼食をとったあと、新和町のハマボウ群生地へ向かった。花の時期は少し過ぎていたが、わずかながらまだ咲いていた。生育に適した環境が減っていることから、個体数は全国的に減少傾向にある。新和のような大きな規模の群生地は全国でも珍しいという。2009年より『天草市の花』に指定されている。ハワイで見られる、同じアオイ科フヨウ属の在来種ハウ(オオハマボウ)に似ている。ハマボウ群生地をあとにして、小宮地から県道289号線を右折、山あいを抜けて、国道266号線に出る。次の目的地は、﨑津だ。 﨑津 﨑津灯台 﨑津を訪れたのは、2008年以来、8年ぶりだった。﨑津集落は、『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』を構成する資産のひとつとして、世界遺産の暫定リスト掲載が決定していて、2016年の登録が期待されていた。そのため観光客向けの案内所や休憩所などができていて、雰囲気は以前と少し変わっていた。 ちなみにその後、推薦内容に不備があるということで、2016年の世界遺産登録はなくなったが、構成資産を見直し、2018年の登録に向けて再推薦するという。 ランタナの花とモンキアゲハ(﨑津) トビ(﨑津) この日予定していた行程は終わったが、まだ日が高い。﨑津の夕景も見たいが、夕方まで数時間ある。諏訪神社からチャペルの鐘展望公園まで登って汗だくになったので、﨑津から車で約15分の河浦町にある愛夢里(あむり)という総合交流施設の温泉で汗を流して、再び﨑津に戻ってくることにした。 愛夢里もまた懐かしい場所だ。2000年の秋、幼馴染たちと天草で遊んだときに、当時オープンして1年ちょっとだった愛夢里に泊まった。15年前の思い出にふけりつつ、湯に浸かった。 日没前、﨑津の夕景を堪能したあと、本渡に戻り、町の中心部にあるホテルにチェックインした。雨が降り始めた。 牛深 雨のため早朝に出かける予定は中止した。ホテルでゆっくりして、遅めのチェックアウト。まずは、雨のなか中央新町にある天草宝島観光協会にいってパンフレットを調達した。女性の係員のかたがとても親切に応対してくださった。街中で朝食をとって、天草の最南端、牛深へ向かった。 6年ぶりの牛深。まずは遠見山に行ってみたが雨のため車外に出る気にならない。車で町中をまわったあと、前もって連絡しておいた、牛深に住む叔父を訪ねた。夏休みなので大学生の従妹も帰ってきていた。みんなで昼食をとった。 浅海 叔父の家を出て、浅海(あさみ)へ向かった。浅海は、牛深の町から下島東海岸を車で30分ほど北上したところにある、浅海湾沿いの集落。子供のころ義理の伯父に教えてもらった魚釣りの穴場で、何度も釣りに通った思い出の場所。夕まずめには港の堤防の真下で、リールを使わないノベ竿でクロ(メジナ)が面白いほど簡単に釣れたし、移動ウキでチヌ(クロダイ)も狙えた。また干潮時には港外西側の岩場が現れ、夏から秋にかけてはそこから投げ釣りでキスがたくさん釣れた。 浅海湾は、雨のせいか海が茶色く濁っていた 16年ぶりに訪れた浅海は、海が茶色く濁っていた。雨のせいだろうか。今でも昔のようにたくさんの魚がいるのだろうか。 大江のハマユウ 浅海から﨑津を経由して大江へ移動した。目当てはハマユウの自生地。花は咲いていたが、潮の飛沫をともなった風があまりにも強くて、カメラを長く外に出していられなかった。 大江から下島西海岸を北上。高浜の高浜焼寿芳窯に立ち寄ったあと、苓北町に入る。雨のなか富岡のホテルにチェックイン。雨と湿気のため外に出る気がせず、ホテルのレストランで夕食をとった。 四季咲岬公園 ハマユウの花とモンキアゲハ(四季咲岬公園) 早朝にホテルをチェックアウトして、富岡半島の西端にある四季咲岬(しきさきみさき)公園へ。遊歩道やトレイルが整備されていて、四季の植物を手軽に楽しむことができる。ここであらためて、ハマユウやハマボウをゆっくりと観察することができた。 永浦島のハクセンシオマネキ ハクセンシオマネキ(永浦島) 富岡からいっきに松島まで移動した。目当ては、永浦島のハクセンシオマネキ。スナガニ科の小型のカニで、甲羅の長さは2cmくらい。雄の片方のハサミが異様に大きい。繁殖期の6~8月にはその大きなハサミを振る「潮招き」とよばれる求愛行動が見られる。永浦島はハクセンシオマネキの日本有数の生息地として知られている。 干潟に行ってみると、無数にいた。私が近づくとサッとすべて穴に隠れてしまうが、その場でしばらくじっとしていると、やがて一匹、また一匹と次々に穴からでてくる。炎天下で暑かったが、飽きずにずっと観察した。 最後に維和島の蔵々窯に行ってみたが、残念ながら閉まっていた。大矢野島のスパタラソ天草の温泉に入って汗を流したあと、熊本に帰った。 写真はすべて筆者による撮影