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ハワイ神話:火山の女神ペレ

オーヒア・レフアの花
大地を食べる女神 神話のなかのハワイは、八百万(やおよろず)の神の日本神道とやや似ていて、自然現象や動物に神々や精霊が宿る多神教世界である。四大神であるカーネ(Kāne)、クー(Kū)、ロノ(Lono)、カナロア(Kanaloa)を筆頭に様々な神がいるが、なかでも特に知名度が高いのが、火山の女神ペレ(Pele)である。 ハワイのすべての火山活動は、彼女の感情表現であるとされている。ペレアイホヌア(Peleʻaihonua。大地を食べるペレ)という別名が示す通り、彼女がひとたび怒れば、地面はうなりをあげ、火口は荒れ狂うように火を噴き、無限に流れ出る溶岩はたちまち町や村を飲み込んでしまう。衝動的に機嫌が変わり、大地の破壊も創造も行うペレは、予測不能、まさに火山性の神である。 伝説のなかのペレ像 ペレには多くの伝説や民話があるが、よくみられる共通点として、美男子好きで惚れやすく、嫉妬深く、負けず嫌いで、自己中心的で、怒ると情けも容赦もなくなり、しかも絶世の美人であることなどが挙げられる。なんとも人間味に溢れた神でもあるのだ。古代よりハワイの人々は、ペレに畏怖の念を抱きつつも、最大の敬意と信仰心をもって暮らしてきた。 ハーブ・カワイヌイ・カーネ(Herb Kawainui Kāne)の著作『Pele: Goddess of Hawaiʻi’s Volcanos』(1987年)によると、ペレはときには若い長身の美人であり、またあるときには腰の曲がったしわだらけの老婆として現れ、ときに白い犬を連れていることもあるという。怒ったときには体が燃えあがり、ときには完全な炎の姿にもなる。マーサ・ウォーレン・ベックウィズ(Martha Warren Beckwith)の『Hawaiian Mythology』(1970年)には、崖のように真っすぐ伸びた背中と月のようにふくらんだ胸のたいへん美しい女性だという記述もある。 ハワイに移住してきたペレ ペレは、初めからハワイにいたわけではない。神々の故国からカヌーではるばるハワイにやってきたとされている。ペレの物語には幾つかのバージョンがあるが、以下、大部分を上記の『Pele: Goddess of Hawaiʻi’s Volcanos』とリンダ・チン(Linda Ching)の『Hawaiian Goddesses』(2001年)による。 ペレは、神々の故国で生まれた。母のハウメア(Haumea)は地母神であり実りの女神、父のワーケア(Wākea)は空を支配していた。 ペレは、きょうだいたちと一緒に、兄のカーモホアリイ (Kāmohoaliʻi、鮫の神) のカヌーに乗って故国を旅立った。一説では、ペレが、姉のナーマカオカハイ(NāmakaoKahaʻi、海の女神)の夫を誘惑したために、姉の怒りをかい、故国を追われたとも云われている。 ペレたちは、まずハワイ群島の北の小さな砂州にたどり着いた。ペレは、彼女の尊い火を守るために深い穴(クレーター)を掘らなければならないが、その砂州はあまりにも小さすぎた。そのため彼女らは、ニイハウ島、カウアイ島と、住む場所を探して穴を掘りながら島々を南東に移っていった。 しかし、せっかくペレが住むのに適した土地をみつけて穴を掘っても、ペレを追いかけてきた怒れる姉——水の女神ナーマカオカハイ——が、大洪水を起こして穴を水浸しにしてしまう。ペレはやむなくカウアイ島からオアフ島、そしてマウイ島へと、南東の島々に移動していくことになる。 カウアイ島のような比較的古い北西の島のクレーターの多くは現在沼地になっているが、その理由を伝説では上のように説明していることになる。また、ペレの南東へ移動は、プレート移動にともなうハワイ諸島の誕生と火山活動の過程と一致している。 カウアイ島、オアフ島、マウイ島の3島を例にすると、それぞれが火山活動によって西からカウアイ、オアフ、マウイの順で誕生した。マウイ島の南東にはさらに新しいハワイ島——現在のペレの住処——があり、こちらは今も活発な火山活動が続いている。ハワイ島のさらに南東には、約一万年後に新しく島になるであろう海底火山ローイヒ(Lōʻihi)がある。以上は余談。 ペレは、オアフ島で現在のパンチ・ボウル(プーオワイナ、Pūowaina)やダイヤモンド・ヘッド(ラエアヒ、Laeʻahi)などのクレーターを掘ったが、いずれも海から近すぎて、火をナーマカオカハイの水から守ることができなかった。 姉との決着 オアフ島の次に、ペレはマウイ島のハレアカラー(Haleakalā)に目をつけたが、このときついに姉ナーマカオカハイは、ペレと決着する決意をした。これを知った兄カーモホアリイは、ペレに助太刀することを申し入れた。しかしペレは、これは自分と姉との戦いであるといい、兄の申し入れを断った。ペレは、あくまでも姉と一対一で勝負をしようとした。 しかし、ナーマカオカハイにそのような自尊心はなかった。ただ憎き妹がいなくなるだけでよかった。ナーマカオカハイは、ハウイ(Haui)という海蛇を同盟者として連れて現れた。ただでさえナーマカオカハイ(水)はペレ(火)よりも本質的に強い。そのうえ海蛇まで敵にまわすとなると、ペレに勝ち目はなかった。ペレは、マウイ島ハーナ(Hāna)の近くで、姉によってバラバラに引き裂かれてしまった。 戦いが行われた丘は、カイヴィオペレ (KaiwioPele、ペレの骨) と名付けられ、ペレの肉体はそこに眠っているとされている。 神となったペレ 肉体から精霊は解き放たれ、ペレはいよいよ神となった。ペレは、まずハレアカラーに鎮座した。しかし、ハレアカラーは、ペレが自身を温め続けるには巨大でありすぎた。そこでペレは、家族を集め、ハワイ諸島の東の端であるハワイ島のキーラウエア(Kīlauea)に移動した。これが最後のチャンスだ。ペレはその地で、エレパイオという森の小鳥のさえずりを聞いた。吉兆を感じた。予感の通り、キーラウエアは、ペレにとって理想的な大きさと場所だった。長い旅の末、ついに安住の地に辿り着いた。 ペレは現在、キーラウエア・カルデラのハレマウマウ・クレーター(Halemaʻumaʻu Crator)に住んでいるとされている。キーラウエアが、今日世界でもっとも活発な活火山であるのも納得だ。 ペレの現在の住処といわれているハレマウマウ・クレーター(2010年6月) ペレに捧げられた植物 キーラウエア付近にもたくさん自生するオーヘロ(ツツジ科)は、ペレに捧げられる神聖な植物とされている。昔のハワイ人は、オーヘロの果実を食べる前には必ずペレに果実を奉納し、祈りをささげてから食べていたという。 『ハワイ島の木』であるオーヒア・レフア(フトモモ科)も、ペレとの関わりが深い。オーヒア・レフアとペレの伝説については、私が制作している姉妹サイト、アヌヘア:ハワイの花・植物・野鳥図鑑の「オーヒア・レフア」のページに詳しく書いたので興味がある方はご覧いただきたい。 オーヘロ(ハワイ火山国立公園で撮影) フラの守護神 ペレには、踊り(フラ)を司る神としての一面もある。ペレと、その最愛の妹ヒイアカ(Hiʻiaka)、そして同じくペレの妹であるラカ(Laka、愛と富の女神、フラの女神)の三柱は、フラの至高の守護神であり、フラのメレ(歌)やチャントには、これらの神々に捧げるものが多数ある。 写真はすべて筆者による撮影 参考文献 Martha Beckwith『Hawaiian Mythology』University of Hawaiʻi Press(1970年)Linda Ching『Hawaiian Goddesses』Hawaiian Goddesses Publishing Co.(2001年)Herb Kawainui Kane『Pele: Goddess of Hawaiʻi’s Volcanos』Kawainui Press(1987年)

ハワイモンクアザラシ(ハワイアンモンクシール)

ハワイモンクアザラシ(ハワイアンモンクシール)
熱帯のハワイにアザラシ? ワイキキのカイマナ・ビーチで夕方泳いでいたら、浜辺にアザラシが突然現れた。ハワイに生息する野生のアザラシ、ハワイモンクアザラシ(タイヘイヨウモンクアザラシ)だ。 アザラシといえば、海に流氷が浮いているような寒い地域に棲んでいるというイメージが一般的にあるので、ハワイにアザラシがいるなんて意外に思う人もいるかもしれない。ハワイモンクアザラシは、熱帯のハワイに生息する珍しいアザラシで、世界でハワイ諸島にしか生息していないハワイ固有種である。 ハワイではよく知られている動物で、ビーチや岩場にあがってきて昼寝をしている姿をたまに見ることができる。オアフ島では、自然保護区になっているカエナ・ポイントなどで見られる確立が高い。サーファーが波待ちをしていたら、すぐそばに体長2メートルもあるアザラシが顔を出して驚いたなんて言う話もサーファーの友人から聞いたことがある。 オアフ島最西端のカエナ・ポイントは自然保護区になっていて、ハワイモンクアザラシの姿も見られる 3種のモンクアザラシ 海に棲む哺乳類のなかで四肢がヒレのようになっているアザラシ、アシカ、セイウチなどを、総称して鰭脚類(ひれあしるい/ききゃくるい)という。ハワイモンクアザラシが属するモンクアザラシ属(Monachus)の仲間は、現存する鰭脚類のなかではもっとも古くて原始的なグループだとされている。数百万年前からほとんど姿が変わっていないという。 モンクアザラシ属は、チチュウカイモンクアザラシ(Monachus monachus)、カリブモンクアザラシ(Monachus tropicalis)、そしてハワイモンクアザラシ(Monachus schauinslandi)の3種が知られている。 大西洋や地中海に生息するチチュウカイモンクアザラシは、生息数が500頭以下と極めて少なく、深刻な絶滅の危機に瀕している。カリブモンクアザラシは、その名の通りカリブ地方に生息していたが、1952年を最後に目撃されていない。現在は絶滅したと考えられている。 ハワイモンクアザラシは、チチュウカイモンクアザラシに比べると生息数は多いが、それでも2016年時点での生息数はわずか1,200頭程度であり、こちらも絶滅の危機に瀕している。 名前について 英語ではハワイアン・モンク・シール(Hawaiian monk seal)という。モンク(monk)は、修道士や僧侶のことである。モンクアザラシの首のひだが、修道士が着る修道服のフードに似ていることに由来するそうだ。また、モンクには、ギリシャ語で「一人で暮らす人」という意味もあるといい、モンクアザラシが群れることなく単独でいることが多いことも、名前の由来になっているらしい。シール(seal)は、アザラシのことである。 ハワイ語ではイーリオホロイカウアウア(ʻīlioholoikauaua)という。直訳すると「荒海を駆ける犬」という意味である。 不思議なことに、古代ハワイのチャントや伝承にアザラシは出てこない。だからといって、古代ハワイ人が、アザラシのように大きな動物の存在に気付かなかったとは考えにくい。つまり、ポリネシア人がハワイにやってきて定住してから長い間、アザラシはハワイに棲んでいなかったと思われる。ウミガメを指すホヌ(honu)や、マグロを指すアヒ(ʻahi)などと比べても、イーリオホロイカウアウアというハワイ語名は明らかにやや説明的で、ハワイ人が日常生活のなかでよく使っていた言葉ではないことがわかる。 特徴と生態 体長は2メートル以上、体重は200キロ以上になる。体は銀色がかった灰色。生まれたばかりの子供は全身黒色。野生の状態での寿命は約30年と言われている。 ハワイモンクアザラシの親子(2017年7月、カイマナ・ビーチにて撮影) 潜水能力が高く、海中を自由に素早く泳ぐことができる。深さ200メートル以上潜った記録もあるという。食餌は主に夜に行い、エビ、タコ、魚などを食べる。天敵はサメ、特にイタチザメだが、小型のサメは逆に捕まえて食べることもある。 昼間はビーチなどでぐったりと寝ていることが多い。その姿があまりにも無気力にみえるため、病気ではないかと心配する人も多い。病気ではなく、夜の狩りのためにたっぷりと休憩しているだけなので、むやみに近づいたり邪魔をしたりすべきではない。ハワイモンクアザラシに危害を加えることは、法律でも禁止されている。 カイマナ・ビーチにあがってきたハワイモンクアザラシの背中には、個体の行動を調査するためのトランスミッターが装着されていた。もちろん、ハワイモンクアザラシの生態を調べ、絶滅から守るためのものであろうが、背中にあのような大きい装置を付けられてストレスにならないのだろうか。今の時代、もっと小型のICチップのようなものにならないものかと、素人の私は思った。 写真はすべて筆者による撮影 参考文献 Patrick Ching『The Hawaiian Monk Seal』University of Hawaiʻi Press(1994年)

ホノルル海さくら:ハワイでビーチクリーン

ホノルル海さくら
海さくらとは 友人に誘われて、ビーチクリーンと呼ばれる、海沿いのゴミ拾いボランティアに参加した。開催者は、ハワイ在住の日本人を中心に活動している「ホノルル海さくら」というボランティア団体だ。 海さくらは、神奈川県の江ノ島を拠点にゴミ拾いを中心とした多方面な活動をしている団体で、日本には他に大阪海さくら、石巻海さくらなど、5箇所に拠点が置かれている。 私が参加したホノルル海さくらは、海さくら初の海外拠点として、2012年に設立された。以来、毎月末の日曜日にビーチクリーンを続けている。4月の熊本地震の際には募金活動を行ったり、チャリティイベントを開催したりもした。 ビーチクリーン当日 ホノルル海さくらがビーチクリーンを行うマジックアイランド 午前9時半、集合場所であるアラモアナセンターの道路を挟んで向かい側にあるビーチパークの入り口に行ってみると、すでに40名ほど集まっている。 参加者が揃ったところで海辺に移動した。代表者の挨拶があり、3回目の参加者に景品としてホノルル海さくらオリジナルのタオルが贈呈された。6回目の参加者には「ブラックタオル」と呼ばれる特別な黒色のタオルがもらえるという。実はこの「ブラックタオル」は、私がデザインさせていただいた。私にできることで少しでもグループの力になれて嬉しく思う。今後オリジナルTシャツの制作も検討中とのことで、また私がデザインを手伝わせていただく予定だ。 また、地元ホノルルの多くの商店や飲食店などが、ホノルル海さくらの活動趣旨に賛同し活動を支援するために、割引券やグッズなどを進呈してくれるという。それらはビーチクリーン後にゲームやコンテストを企画して、参加者に景品として配っているそうだ。 午前10時、各自にゴミ袋、手袋、トングが配られて、約1時間、海沿いを丹念に歩いてゴミを拾って歩いた。ビーチクリーンというからてっきり砂浜を掃除するのかと思っていたが、マジックアイランドという人口の半島の岸辺のゴミ拾いだった。 一見きれいにみえるマジックアイランドだが、気をつけながらゆっくり歩くとたくさんのゴミが落ちたり流れ着いたりしていた。ゴミの内容は主に空き缶、空き瓶、食べ物のパッケージ、袋、衣類、釣り糸など。一時間で私の大きなゴミ袋はいっぱいになった。そのゴミ袋が40人分あるわけだから、相当な量である。それでもこの日は少ない方だったというから驚きだ。 午後はBBQで参加者と交流 ゴミ拾いが終わった後は、参加希望者にはマジックアイランドでBBQが用意されていた。ランチを食べながら参加者と交流を深めることができた。参加者はほとんどが日本人で、留学生やハワイ在住の社会人のほかに、短期で旅行に来ているという人もいた。 ハワイの環境について考えるいい機会になったし、新しい友人もできた。また機会があればぜひ参加したい。

ハワイ神話:月の女神ヒナ

ココ・ヘッドと満月(オアフ島)
月に暮らす女神 月にはヒナという女神が暮らしていて、毎日カパ布を作っている……。日本では、月にはウサギがいて餅をついているというのが定番だが、ハワイでは、月を見上げるとヒナと彼女の瓢箪の容器が見えるといわれている。 ヒナ(Hina)は、ハワイだけでなく、タヒチやその他の地域の神話にも登場する、ポリネシア地域でもっとも古い女神である。古代太平洋地域での女性や母の象徴であったようだ。ハワイ語で女性のことをwahine(ワヒネ)というが、この言葉はヒナに由来するらしい。 ヒナが登場する神話は内容が様々だが、月や海に関連する話が多い。月を表すハワイ語のひとつにmahina(マヒナ)があるが、これもヒナと関係しているに違いない。 また、ヒナというハワイ語には「白色」や「銀色がかった灰色」という意味がある。これは、月光の明るい色のことを表しているとも考えられる。 月はハワイ語で「マヒナ」と呼ばれる カパ作りの名手 ヒナには、働く女性、特にカパ作りに関係する話も多い。ヒナには次のような伝説がある。 毎日のカパ作りと家族との確執に疲れたヒナは、瓢箪の容器に彼女が気に入っているものを入れてハワイを逃げ出した。虹の道を登って太陽に行ってみたが、太陽は彼女には暑すぎた。次の日の夜、ヒナは再び虹の道を渡って今度は月に移り、そこで暮らし始めた。ヒナがハワイを去るとき、ヒナの夫が引き止めようとしてヒナの足をつかみ引きちぎってしまったのだが、それでもヒナは、平和な月で安らかに暮らしている。 またある伝説では、ヒナは、月に逃げるときに彼女のカパ作りの道具一式も持っていったという。ヒナはカパ作りの名手で、彼女が作る白くて柔らかいカパは極上の品質であるという。満月の夜、月の周りにたまに白い積雲が現れるのは、ヒナが新しく作ったカパを乾かしているからだといわれている。 たくさんの名前 ヒナには以下のような名前のバリエーションがあるという。マラマ(malama)は、ハワイ語で月を表すもう一つの言葉。 Hina-hanaia-i-ka-malama ヒナ・ハナイア・イ・カ・マラマ(月で働くヒナ) Hina-i-ka-malama ヒナ・イ・カ・マラマ(月にいるヒナ) Hina-i-kapaʻi-kua ヒナ・イ・カパイ・クア(カパ布を作るヒナ) Hina-hanai-a-ka-malama ヒナ・ハナイ・ア・カ・マラマ(月で滋養を蓄えたヒナ) さらにヒナは、hualani(フアラニ、天国の果実)と呼ばれるスイートポテトの一種とも関連がある。「月で滋養を蓄えたヒナ」という意味のヒナ・ハナイ・ア・カ・マラマという名前は、ヒナが月でこの芋を発見したという伝説に由来するそうである。  ヒナとバニヤンの木 インディアンバニヤン(ホノルル市内で撮影) さらに別の物語では、月の表面の暗くみえる部分、いわゆる「月の海」は、ヒナが作るカパ布の材料であるバニヤンの木だとされている。ヒナは、そのバニヤンの下にある家で暮らしているそうだ。あるとき、ヒナがバニヤンに登って、カパの材料となる樹皮を採るために枝を折ったが、誤って枝を地球に落としてしまった。その枝が地球で根付いて、最初のバニヤンの木になったという。 ヒナの絵本 ハワイの書籍店のハワイアンコーナーや絵本コーナーをのぞいてみると、ヒナが主人公の絵本がいくつかある。ミハエル・ノーデンストローム作の『Hina and the Sea of Stars』という絵本を手に取って読んでみたが、カラフルな絵とシンプルな英語で、数あるヒナの伝説の断片を繋げて物語が作られていた。またノーデンストローム氏の同じシリーズとして、火山の女神ペレが主人公の絵本もあった。2冊セットで、お子さんへの英語勉強も兼ねたハワイのお土産にいいと思う。 ワイキキのビルの間から登る満月。2014年8月10日、この日の満月はスーパームーンだった。月を見るたびにヒナやバニヤンの木のことを思うが、私の目にはやはりウサギに見えてしまう。私にもいつかヒナや瓢箪の容器、それにバニヤンの木が見えるときが来るだろうか。 写真はすべて筆者による撮影 参考文献 Martha Beckwith『Hawaiian Mythology』University of Hawaiʻi Press(1970年)Dietrich Varez『Hina: The Goddess』Petroglyph Press, Ltd.(2002年)

エルヴィス、ビートルズ、そしてボブ・ディラン

エルヴィスが子守唄 生まれた時から熊本の実家では、年中、父親が偏愛したエルヴィス・プレスリーの曲が流れていた。大げさではなく、エルヴィスの歌を子守唄にして育ったようなものだ。当然、エルヴィスの曲はほとんど歌えるほど知っている。 中学生になると、エルヴィスの音楽性やカリスマ性もよく理解できるようになった。私は特に初期のロカビリー色の強い曲が好きだった。サン・レコード時代の「Blue Moon of Kentucky」、「I Don’t Care if the Sun Don’t Shine」、「Baby Let’s Play House」、「Mystery Train」などをひたすら聴いていた。今もこれらの曲を聴くと、熊本の少年時代の情景や思い出や匂いがノスタルジックに蘇ってくる。 ビートルズに没頭した高校時代 そこから自然の流れで、カール・パーキンス、チャック・ベリー、リトル・リチャードなど、エルヴィスが歌った名曲たちを作った同時代のアーティストや、彼らの曲をカバーしたザ・ビートルズなども聴くようになった。 特にビートルズは、私が高校1年生のときに通称「赤盤・青盤」と呼ばれるコンピレーションアルバムがCDで発売されたということもあり、よく聴いた。高校1年生の冬から毎月1枚ずつ、デビューアルバム「Please Please Me」から順にすべての英国版CDアルバムを、熊本市街の上通りにあるウッドペッカーというレコード屋で買い揃えて愛聴した。“英国版”というのが小さなこだわりだった。 翌年、高校2年生のときに「Live at the BBC」が発売され、エルヴィスのバージョンで慣れ親しんでいた「That’s All Right (Mama)」、「I Forgot to Remember to Forget」、「I Got a Woman」、「Johnny B. Goode」などの曲のビートルズによるライブカバーを聞いて、さらにビートルズに熱中していった。 特に、ジョン・レノンが好きだった。 さらに翌年、高校3年生の大晦日、テレビで「ザ・ビートルズ・アンソロジー」のドキュメンタリーが放映された。紅白歌合戦の裏番組だった。番組の案内役だった小宮悦子さんもジョンのファンで、「Strawberry Fields Forever」などの曲が好きだと言っていたのが嬉しかったことを覚えている。 そしてボブ・ディランへ ドキュメンタリーのなかで、ビートルズに大きな影響を与えた人物としてボブ・ディランが登場した。とくにジョンが熱狂的に惚れ込んだと知って、私もボブ・ディランのことが気になった。 ボブ・ディランはたくさんのアルバムを出していて、いつの時代のどのアルバムを買えばいいか迷ったが、まずは有名な「Like a Rolling Stone」が収録されている「Highway 61 Revisited」を買った。 一曲目の「Like a Rolling Stone」のイントロから一番を聴いてすぐ、ノックアウトされた。めちゃめちゃかっこいいと思った。今まで聴いてきたどんな曲とも違っていた。30年前の曲とは信じられないくらいなにもかも斬新に聴こえた。もちろん、当時18歳の私には歌の意味はほとんどわからなかったが、なんとなくすごいということは感じとれた。ちなみに、ボブ・ディランには、歌詞の内容はわかってもその歌の真意は難解すぎてわからない曲がたくさんある。 アルバム最後の曲「Desolation Row」も、とんでもない曲だと思った。11分もあるアコースティックギターでの弾き語り曲で、いろんな登場人物が出てくるが、なかなか意味がわからない。でもなんかかっこいいのだ。歌詞をみながら何度も何度も聴いた。長大な歌詞だが、今では一字一句すべて覚えてしまった。2001年3月に福岡で初めてボブ・ディランのコンサートを観たが、そのときの3曲目で「Desolation Row」を生で聴けたのは嬉しかった。なお、この日のことは「ボブ・ディランのコンサート」で詳しく書いた。 「Highway 61 Revisited」を聴いた母も、私と同じようにボブ・ディランにはまってしまった。以降は、母と一緒にせっせと全アルバムを買い揃えた。 ボブ・ディランを聴いて、確かに彼がビートルズに影響を与えたことがわかった。まず歌詞の内容が「Rubber Soul」あたりから哲学的になっていくし、サウンドがボブ・ディランっぽい曲がちらほらある。ジョンの「You’ve Got to Hide Your Love Away」はいかにもボブ・ディラン風だし、ポールの「Rocky...

ハワイの野鳥との出会い

オアフ・アマキヒ
きっかけは野鳥の映画 子供の頃から、地元熊本の川や湖などの淡水の環境と、そこにすむ魚たちがとにかく好きで、フナ、コイ、ハエ(オイカワ)、ハヤ(ウグイ)などの魚釣りに夢中だった。また、絵を描くことも同じくらい好きだったので、図鑑をみながらヤマメ、イワナ、アユ、タナゴなどの日本の川魚の絵を無数に描いた。大学生になり自分の運転で遠出できるようになってからは、特に緑川水系と菊池川水系の川や湖に魚釣りに出かけた。野鳥には、特に関心はなかった。 大学を卒業後、ハワイに移住した。ハワイではどういうわけか川魚や、川辺の環境に惹かれなかった。あれだけ好きだった魚釣りも、ハワイでは一度もやったことがないし、やりたいと思ったこともない。 ハワイ暮らしが始まって1年くらい経ったある日、友人に誘われて4人で映画を観に行った。世界のいろんな渡り鳥の長い旅を追いかけるドキュメンタリー映画だった。映画のなかの鳥たちの美しさに感動した私は、すぐに書店に行ってハワイの鳥図鑑を買った。 図鑑をみて、ハワイには思った以上にたくさんの種類の野鳥が生息していることを知った。それらの野鳥の多くが、地球上でハワイにしか生息していない固有種で、しかもそれらの多くがすでに絶滅したか、絶滅の危機に瀕していることも知った。 なかでも、森の野鳥たち、とくにハワイミツスイ類の美しさに魅了された。普通にホノルルの街中で暮らしていたら、まず見かけることはない鳥ばかりだ。いつの日かこの図鑑に載っているような美しいハワイミツスイをこの目で見てみたいという、憧れのような思いを抱くようになった。 野鳥に興味を持ちはじめると、ホノルルの町中の身近な場所にも、ハワイならではの鳥がいくつかいることがわかるようになった。マヌオクーという真っ白なアジサシは、ハワイではホノルルの都市部のみで見られる在来種で、その可愛い顔に一目惚れした。8月にはコーレア(ムナグロ)などの渡り鳥が北から遠路はるばるやってきてハワイで越冬し、4月に再び北に向かって旅立つまで観察するのが毎年の楽しみになった。このマヌオクーとコーレアを中心に、写真も撮るようになった。 くるりとした目が可愛らしいマヌオクー(シロアジサシ) ハワイの代表的な冬鳥コーレア(ムナグロ) ハワイミツスイとの出会い そしてついに、それまで “図鑑の中でだけ会える鳥” だった、ハワイミツスイに出会う日がやってきた。 ワアヒラ・リッジよりホノルル市内を望む 野鳥と同時にハワイの花や木にも興味を持つようになった私は、ある週末、植物の写真を撮るために、コオラウ山脈にあるワアヒラ・リッジという尾根に出かけた。尾根で花や木の写真を撮りながら、ふと10メートルくらい離れた木の枝をみると、緑色の小さな鳥がとまっていた。この尾根にたくさんいるメジロに似ているが、図鑑で何度も何度も眺めた、下にカーブしたくちばしが肉眼で確認できた。 間違いない、ハワイミツスイだ! 私は息を潜め、固唾を飲んで写真を撮った。緊張している私をよそに、鳥は私の存在をあまり気にしている様子はなく、その枝にしばらくいて、やがて飛び去った。 帰宅してさっそく撮った写真と図鑑を照らし合わせた。鳥は、確かにハワイミツスイ類の一種で、アマキヒという名前だった。アマキヒは、オアフ島以外の島にも生息しているが、例えばカウアイ島の個体群はカウアイ・アマキヒ、ハワイ島のものはハワイ・アマキヒと呼ばれ、それぞれが島単位での固有種である。私が出会ったのはオアフ・アマキヒで、オアフ島の固有種だ。また別の日には、同じ尾根で、アパパネという赤いハワイミツスイにも出会うことができた。 オアフ・アマキヒ(コオラウ山中で撮影) 自分が暮らしている小さな島、そしてワイキキという世界有数のリゾート地がある観光の島オアフの、しかも街の喧騒から車で20~30分程度しか離れていない場所で、ちょっと山に入れば古来からいる美しい森の鳥たちがくらしていることに深く感動した。以降、ハワイの野鳥と、野鳥たちを育むハワイの自然の魅力にさらにどっぷりとはまっていった。 写真はすべて筆者による撮影

ハワイ出雲大社オリジナル御朱印帳

ハワイ出雲大社オリジナル御朱印帳
神社ブームと御朱印帳 ハワイ出雲大社のオリジナル御朱印帳をデザインさせていただいた。以前、友人のバーベキューパーティーに出席したときに、ハワイ出雲大社の神職であるM氏とお会いし、野鳥や日本酒の話などで盛り上がった。そのM氏が、御朱印帳のデザインをやってくれるデザイナーを探しておられるということで、さらに別の共通の友人から私に話が回ってきた。私は快諾し、M氏とメールでデザインについてやりとりするようになった。 御朱印帳とは、寺社に参拝した証しとして、筆書きと印(朱印)を貰うための、和式のスタンプブックのようなもの。近年、「神社ガール」という言葉もあるくらい、若者の間でも神社ブームが起きているらしい。そして、各地の寺社の朱印を集める「御朱印ガール」も少なくないという。ハワイ出雲大社を参拝する日本人観光客の多くが、ハワイらしい朱印帳に興味があるようなので、オリジナルの御朱印帳を作ろうという話になったのだそうだ。 デザイン開始 まずは、ミーティングのためハワイ出雲大社に伺った。「せっかくですから」ということで、M氏から神社への入り方、手水舎の使い方など、細々と参拝作法を教わり、参拝した。もちろん、御朱印帳のデザインが成功することを祈願した。 ミーティングでは、社名を英語で入れることや、ハワイを感じさせるデザインであることなどを確認し、早速スケッチに取り掛かった。 まず、ハワイ出雲大社がKukui Streetという名前の通りに面していることに因んで、ククイの木をモチーフにしてみた。ククイは、『ハワイ州の木』でもあるため、ぴったりだと思った。さらに『ホノルル市の鳥』であるマヌオクー(シロアジサシ)を合わせてみた。実際、マヌオクーはククイの木の上で営巣することがあり、ハワイを象徴する木と鳥の組み合わせだ。 ククイの木とマヌオクー(シロアジサシ)を使った最初のスケッチ そうしてできあがった最初のスケッチが上の画像だ。これをハワイ出雲大社の皆さんに見てもらったところ、もっと一般的に知られたモチーフを使用した、誰が見てもハワイを連想するようなわかりやすいデザインにしてほしいとのことだった。そこで、次のスケッチでは、ハイビスカスやプルメリアなどのハワイを連想させる花と植物をちりばめて、さらにハワイの象徴として波を意匠した。今度はとても気に入っていただけた。 完成 完成した御朱印帳 ハイビスカスやプルメリアなどのハワイを連想させる花と植物をちりばめて、さらにハワイの象徴として波を意匠した。デザイン案が決まった後は、トントン拍子に事が進んだ。イラストとレイアウトが完成し、日本の印刷業者から送られてきたサンプルは、私が指定したとおりの色味で、大変満足のいく仕上がりだった。 出来上がった御朱印帳は、ピンク色と緑色の2種類がある。ピンク色のほうは紙の表紙にデザインがフルカラーで印刷されたもの。緑色のほうは、布地にデザインが金色の箔押しで入っている。 ハワイ出雲大社にて御朱印帳の頒布が開始されるとすぐに好評を得て、毎日のように多くの方が御朱印帳を受けていかれると聞いて安心した。 写真はすべて筆者による撮影

天草旅行(2015年8月)

﨑津教会
特別な場所 現在、『ダイヤモンドヘッド三十六景』というイラストをシリーズで描いている。葛飾北斎の有名な『富嶽三十六景』へのオマージュだが、これとは別に、私がハワイと同じくらい好きな天草諸島(熊本県)をテーマにしたイラストを描きたいという思いが、年々こみ上げてきている。 天草は、私にとって少年時代からの思い出がたくさん詰まった特別な場所なのだが、これまでは、それぞれの島のそれぞれの地域がもつ多彩な風景や風土が、漠然と好きなだけだった。しかし、天草をテーマにしたイラストを描くためには、これからもっとたくさん四季折々の天草を訪れて、自然、歴史、文化に触れなければならない。 『牛深ハイヤ』| 絵:崎津 鮠太郎 2015年8月の一人旅は、そういう思いを込めた最初の天草旅行だった。3日間しかなく、訪ねるのを割愛した場所がたくさんあった。史跡や景勝地にはほとんど行かなかったし、天草の中でも私が特に好きなエリアのひとつである上島南岸(姫戸、龍ケ岳、倉岳など)もまるごとカットした。天草を題材にした作品数点を残した川瀬巴水の足跡を辿ったりもしたかったが、できなかった。 ハワイで暮らしている私が今後どのくらい頻繁に天草を旅行できるかわからないが、今回は、まずは下見というか、天草の魅力と私の島々への思いをあらためて確認するための旅だった。 7年ぶりの天草路 午前8時、レンタカーで熊本駅前を出発し、天草へ。2009年4月に牛深ハイヤ祭りを観に行って以来、7年ぶりの天草だ。国道3号線から宇土で国道57号線を右折。宇土半島の北岸を三角方面に進む。子供の頃から数え切れないほど通った、懐かしのコース。 宇土半島の先端近くに、三角西港がある。世界遺産『明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業』の構成資産のひとつである。この旅の約1ヶ月前、7月5日に登録されたばかりであった。三角西港を過ぎ、宇土半島と天草諸島の最初の島である大矢野島を結ぶ天門橋(天草五橋一号橋)を渡る。橋のすぐ北側には、新天門橋(仮称)の建設が進められていた。 大矢野島の天草四郎観光協会に立ち寄ってパンフレットを数冊入手後、天草パールラインを進み天草上島へ。松島からは有料道路があるが、海岸や港町の景色を楽しみたいので下道(国道324号線)をのんびりとドライブした。道の駅有明リップルランドでトイレ休憩して、本渡へ。島子あたりから天草瀬戸大橋までひどい渋滞だった。ようやく渋滞を抜け、本渡の水の平焼を訪ねた。 水の平焼 今回購入した青海鼠の猪口、丸皿、赤海鼠の飯椀 天草には天草陶磁器の窯元が諸島各地に点在する。水の平焼(みずのたいらやき)はそのひとつで、創業は1765年と古い。海鼠釉(なまこゆう)と呼ばれる独特の釉薬で知られていて、青海鼠(あおなまこ)と赤海鼠(あかなまこ)がある。青海鼠の猪口と丸皿、赤海鼠の飯椀を購入した。ハワイで使うのが楽しみだ。 新和町のハマボウ ハマボウの花(新和町) 本渡で昼食をとったあと、新和町のハマボウ群生地へ向かった。花の時期は少し過ぎていたが、わずかながらまだ咲いていた。生育に適した環境が減っていることから、個体数は全国的に減少傾向にある。新和のような大きな規模の群生地は全国でも珍しいという。2009年より『天草市の花』に指定されている。ハワイで見られる、同じアオイ科フヨウ属の在来種ハウ(オオハマボウ)に似ている。ハマボウ群生地をあとにして、小宮地から県道289号線を右折、山あいを抜けて、国道266号線に出る。次の目的地は、﨑津だ。 﨑津 﨑津灯台 﨑津を訪れたのは、2008年以来、8年ぶりだった。﨑津集落は、『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』を構成する資産のひとつとして、世界遺産の暫定リスト掲載が決定していて、2016年の登録が期待されていた。そのため観光客向けの案内所や休憩所などができていて、雰囲気は以前と少し変わっていた。 ちなみにその後、推薦内容に不備があるということで、2016年の世界遺産登録はなくなったが、構成資産を見直し、2018年の登録に向けて再推薦するという。 ランタナの花とモンキアゲハ(﨑津) トビ(﨑津) この日予定していた行程は終わったが、まだ日が高い。﨑津の夕景も見たいが、夕方まで数時間ある。諏訪神社からチャペルの鐘展望公園まで登って汗だくになったので、﨑津から車で約15分の河浦町にある愛夢里(あむり)という総合交流施設の温泉で汗を流して、再び﨑津に戻ってくることにした。 愛夢里もまた懐かしい場所だ。2000年の秋、幼馴染たちと天草で遊んだときに、当時オープンして1年ちょっとだった愛夢里に泊まった。15年前の思い出にふけりつつ、湯に浸かった。 日没前、﨑津の夕景を堪能したあと、本渡に戻り、町の中心部にあるホテルにチェックインした。雨が降り始めた。 牛深 雨のため早朝に出かける予定は中止した。ホテルでゆっくりして、遅めのチェックアウト。まずは、雨のなか中央新町にある天草宝島観光協会にいってパンフレットを調達した。女性の係員のかたがとても親切に応対してくださった。街中で朝食をとって、天草の最南端、牛深へ向かった。 6年ぶりの牛深。まずは遠見山に行ってみたが雨のため車外に出る気にならない。車で町中をまわったあと、前もって連絡しておいた、牛深に住む叔父を訪ねた。夏休みなので大学生の従妹も帰ってきていた。みんなで昼食をとった。 浅海 叔父の家を出て、浅海(あさみ)へ向かった。浅海は、牛深の町から下島東海岸を車で30分ほど北上したところにある、浅海湾沿いの集落。子供のころ義理の伯父に教えてもらった魚釣りの穴場で、何度も釣りに通った思い出の場所。夕まずめには港の堤防の真下で、リールを使わないノベ竿でクロ(メジナ)が面白いほど簡単に釣れたし、移動ウキでチヌ(クロダイ)も狙えた。また干潮時には港外西側の岩場が現れ、夏から秋にかけてはそこから投げ釣りでキスがたくさん釣れた。 浅海湾は、雨のせいか海が茶色く濁っていた 16年ぶりに訪れた浅海は、海が茶色く濁っていた。雨のせいだろうか。今でも昔のようにたくさんの魚がいるのだろうか。 大江のハマユウ 浅海から﨑津を経由して大江へ移動した。目当てはハマユウの自生地。花は咲いていたが、潮の飛沫をともなった風があまりにも強くて、カメラを長く外に出していられなかった。 大江から下島西海岸を北上。高浜の高浜焼寿芳窯に立ち寄ったあと、苓北町に入る。雨のなか富岡のホテルにチェックイン。雨と湿気のため外に出る気がせず、ホテルのレストランで夕食をとった。 四季咲岬公園 ハマユウの花とモンキアゲハ(四季咲岬公園) 早朝にホテルをチェックアウトして、富岡半島の西端にある四季咲岬(しきさきみさき)公園へ。遊歩道やトレイルが整備されていて、四季の植物を手軽に楽しむことができる。ここであらためて、ハマユウやハマボウをゆっくりと観察することができた。 永浦島のハクセンシオマネキ ハクセンシオマネキ(永浦島) 富岡からいっきに松島まで移動した。目当ては、永浦島のハクセンシオマネキ。スナガニ科の小型のカニで、甲羅の長さは2cmくらい。雄の片方のハサミが異様に大きい。繁殖期の6~8月にはその大きなハサミを振る「潮招き」とよばれる求愛行動が見られる。永浦島はハクセンシオマネキの日本有数の生息地として知られている。 干潟に行ってみると、無数にいた。私が近づくとサッとすべて穴に隠れてしまうが、その場でしばらくじっとしていると、やがて一匹、また一匹と次々に穴からでてくる。炎天下で暑かったが、飽きずにずっと観察した。 最後に維和島の蔵々窯に行ってみたが、残念ながら閉まっていた。大矢野島のスパタラソ天草の温泉に入って汗を流したあと、熊本に帰った。 写真はすべて筆者による撮影

ハワイでの英語学習体験記

熊本の大学時代、ボブ・ディランに熱中していた。このことは「エルヴィス、ビートルズ、そしてボブ・ディラン」で詳しく書いた。ボブがどういう意味の歌を歌っているのか知りたくて、歌詞をノートに書き写し、わからない単語はすべて調べて書き出したりしたが、なかなか理解できなかった。 ハワイへ語学留学 大学卒業後、英語を習得するためアメリカに留学する決心をした。ボブの歌を英語のままダイレクトに聴き取って理解できるようになりたいというのが一番の動機だった。留学先は、か細いながらもツテのあるハワイに決まった。23歳で新しい人生が始まった。 ハワイに来てすぐの私は、英語の会話は片言、読み書きは日本人の平均レベルよりはややできるくらいだった。英字新聞はほとんど読めなかったし、テレビや映画はさっぱり聞き取れなかった。まずは、ハワイ大学の英語プログラムに約1年通った。 会話(話すこと・聞くこと) 会話に関しては、ハワイに来て3ヶ月ほどたったころ突然、周りが驚くほど急激に伸びたあと、緩やかに伸びていった。現在は日常生活に不自由しない程度に話せるし聞きとれるが、23歳というのは第二言語を母国語レベルで習得するには遅すぎるらしく、残念ながら発音はマスターできなかった。日本語訛りのある英語しか話せない。10代でアメリカに来た日本人には、ネイティブに近い発音の英語を話すことができる人がたくさんいる。 英語は、言語としての構成や、話すときの舌の運動の具合が、日本語とはあまりにも異なる。すでに成熟した大人の脳にとって、英語をインプットしてくのは大変な作業だ。英語を第二言語として習得するには、子供のときに習得するのがもっとも近道だと思う。もし、大人になってから英会話を習得したくなった場合、練習や勉強よりも、とにかく常に英語を話す必要がある環境に身を置くことが大事だと思う。 私の妹は、アメリカ人と結婚してニューヨークで暮らしている。妹のアメリカ在住歴は私より数年長いが、アカデミックな英語の読み書きの力はむしろ私の方が勝っている。彼女が学生のときの課題のエッセイを私が添削してあげていたくらいだ。しかし、英会話となると、私は彼女の足元にも及ばない。妹は、夫やその両親と長い時間を過ごし、ときには喧嘩もし、将来の大事な話もたくさんしてきただろう。英語を話してきた経験値と会話の密度が、私とはまるで違う。妹は、彼女の人生と家庭のために英語を話す必要があったのだ。 書くこと 書くことは、語学学校時代の後半に通ったハワイ大学の「HELP」というプログラムの「アカデミックライティング」という授業がずいぶん役に立った。アメリカの大学入学を目指す留学生が、英語での学術論文の書き方や論理の構成方法を学ぶクラスだ。この頃は、ハワイでもう一度大学に入ってグラフィックデザインを勉強することを決めていたので、意欲的に学習した。 読むこと 最も苦労したのは、読むことだった。語学学校では、さまざまな記事や論文をたくさん読まされた。読むことの積み重ねによってボキャブラリーと表現パターンはゆるやかに習得はしていくのだが、いかんせんトピックに興味がないため、なかなか読む気にならないし、内容が頭に入ってこなかった。当時読まされたもので今でも覚えているものは、ほとんどない。 「HELP」に約一年を通ったあと、ハワイ大学附属のコミュニティカレッジに入学してグラフィックデザインを専攻した。教科書の内容も課題の読み物もすべてアートやデザインという、私が直接興味があることなので、これまでよりは意欲的に読むことができた。しかし、この頃はもう私にとって英語の習得が第一の目的ではない。もし、同じ情報が日本語でも書かれてあるならどうだろう。母国語で読む方が気が楽だし、効率的かつより深く理解できるに決まっている。デザインは、日本語で書かれた書籍やウェブサイトもずいぶん頼りにしながら勉強した。 そんな私が飛躍的に英語を読めるようになったのは、ハワイの野鳥について深い興味を抱くようになってからだった。 関連記事 ハワイの野鳥との出会い 崎津鮠太郎 ハワイの野鳥について詳しく書かれている本はすべて英語なので、野鳥のことをもっと知りたければ英語を読むしかない。そこには私が知りたい情報が詰まっている。語学学校の課題でさほど興味がない記事を読まされるのとは、内容が頭に入ってくる度合いがまったく違う。わからない単語が出てくると、その意味を「知りたい!」という思いがとても強いし、そうして知った単語は確実に自分のものになっていく。 英語を話す必要がある環境に身を置くことが英会話上達の肝だと書いたが、読むことについても同じことが言えると思う。私にとって、ハワイの野鳥について知りたいと思う欲求を満たすためには、英語の本を読む“必要”があったから、厭うことなくハワイの野鳥関連の本を読み漁った。結果として、ハワイの野鳥について調べれば調べるほど、英語の読解力が上がっていた。 以上、英語は結果的に私がもっとも勉強した学科のひとつになったので、体験記としてまとめてみた。今ではボブ・ディランの歌も聞き取れる。当初の目的はひとまず達成できたといえる。